sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて 冷たいシャンパンと 届いた本と手紙に気持ちが緩む、 感じ

続ドーナツシリーズ(またまた長文です)


ベッドの中までチョコレートの匂いだろうか、と
最初に会った時、思った。
極上のカカオ、
ロシアの秘密。


その頃、
仕事は面白くないわけじゃなかったけど
何年も忘れられない人がいて
オフィスのコンピュータや インクの匂いは その人を思い出させるので、
仕事の後、 何か別のことをしないでは、家に帰れなかった。

ソムリエの講座には半年通ったけど 資格試験を受ける前にやめてしまった。
ワインの香りが、その人を思い出させたから。
カベルネメルローもシラーズも シャルドネピノノワールもシャブリも
どんなワインも
その人の姿を いろんなバージョンで思い出させるばかりだったから。

フラメンコ教室には1年通った。
踊れば踊るほど 、たくさんの夜がよみがえり
そのどの夜にも、その人の影がいたのだった。
そして発表会があるというので、 その前にやめてしまった。
その人でいっぱいの
わたしの血管の色を、匂いを、
昼間の公民館のホールで 家族連れの観客にさらすわけにはいかなかったから。

フラワーアレンジのクラスもとってみた。
どんな可憐な花も
オキーフの絵のような妖艶さで迫ってきて、
その香りが やっぱり、その人を思い出させるので
体験クラスだけで逃げ出してしまった。
その人とどんな花も 一緒に見た記憶はないのに 、
春、風に浮き上がるたんぽぽの綿毛でさえ 頼りなげな匂いを感じ、
そして、その人を思い出す。

ネイルアートの教室はもっとひどかった。
二人ペアで、相手の爪を塗る時、塗られたネールに嫉妬してしまうのだ。
その色に、その匂いに、
今、その人と一緒にいるかもしれない 知らない女性を感じて 落ち着かなくなり
結局、3回しか通えなかった。

中国茶の教室も同じことだった。
その人と中国茶を飲んだことなど一度もないのに
煙ったような、時には花のような、お茶の香りが立ち上がるたびに
その人のうなじや肩甲骨を思い出して 、
そこにくちびるを這わせたときに返ってきた 自分の息を思い出した。
しんとした瞑想的で清潔な雰囲気の教室で
一人耳を赤く染めているわけにもいかず
あわててお茶菓子を口に入れると
それは干した杏で
その湿って柔らかい感触が、わたしの耳をもっと赤くさせてしまうのだった。

いろんなお稽古が全部無駄だとわかると
習い事ではなく夜のアルバイトをしてみることにした。
といっても、お酒を飲むようなところではなく
明るいチェーンのドーナツ屋である。
ドーナツの甘い匂いの中で、はじめて
その人のことを苦しくなく思い出すことができそうだった。
夜のお客は若い子ばかりで、みんな馬鹿に見えた。
それも、ちょっとほっとすることだった。

このドーナツ屋の並びには、老舗のチョコレート専門店があった。
2月14日を中心に、日本に大量に入ってくる外国の高級チョコレートではなく
神戸では知らない人のない、戦後から続くチョコレート屋である。
元々、外国人による家族経営で、初代オーナーは亡命ロシア人だったということで
パルナスの歌を思い出すような、
ロシアのメランコリックな空気漂うチョコレートの専門店だ。
舶来という言葉がよく似合っていた。

ある日、そのチョコレート専門店でチョコレートイベントの貼り紙があった。
セミナーと書いてあるが専門的な講義ではなく、
そこの3代目だか4代目だかが、自社の宣伝のためにするイベントらしく
無料で試食とおみやげつき。
昼間の開催だったけど、丁度、前の週に会社の泊まり合宿があって
その振り替え休みが取れる日だったので 、申し込んだ。

セミナーは、西宮の駅から10分くらい歩いた
川沿いにある料理教室の大きな部屋で開催された。
ゴールデンウィーク直後の平日午後は、 熱いほどの陽気で、
レースのカーテンを通して 教室中明るく白っぽかった。
参加者は全員女性で 、家事手伝いの若い子や専業主婦、
ほんの少し女子大生のような子もいた。

教室は最初から甘いチョコレートの匂いが漂っていたけれど
講師役の40代くらいの男性が、わたしの後ろから現れ、教室を横切った時
教室のチョコレートとは別の 、甘い風が起こった。
しっとりと冷たく湿った、深い深い森を思い浮かべるような
落ち着いた甘い風。
手でつかめそうなくらい、強い印象なのに
目を見開くと、気配だけ残して消えてしまいそうな、
甘い風。

髪は落ち着いたグレーで、目も同じ色。
二分の一、四分の一だろうか、白く乾いた肌、厚みのある体の後ろに
日本ではない、涼やかな大陸の風景が見える。
何より、日本人がチョコレートのお風呂に入ってもこうはならないと思われる
深い深い緑の甘さがあった。

わたしは、彼の真っ白なシャツが、
これほど甘い香りにも染まらず、清潔に白いことに驚き
そして思ったのだ。

ベッドの中までチョコレートの匂いだろうか。
爪の中まで、髪の1本1本まで
チョコレートの匂いだろうか。
まつげのひとゆれも
片頬だけの微笑みも
甘い匂いをまき散らすのだろうか。
そしてシーツのしわのひとつひとつに
チョコレートの香りの、深く冷たい森が潜んでいるのだろうか。

チョコレートにまつわる簡単な話が終わって
出されたのはチョコレートフォンデュだった。
6人でワンテーブルの各テーブルにひとつずつ
フォンデュチョコレートのはいった大きなル・クルーゼの鍋が置かれ
そのまわりに一口大に切って、 くしに刺した果物やケーキが並べられた。
アルバイト先で毎日イヤになるほど見て、食べてもいる ドーナツも、
一口大になってくしに刺さっていると、まるでドーナツらしくなかった。
その、もとは丸く輪っかだったドーナツのかけらを
たっぷりのチョコレートにつけて食べると
それは、ますますドーナツらしくなくなって
わたしは何だか愉快になった。
愉快になって、
耳を赤く染めることなしに
チョコレートの匂いの深い森を潜ませたベッドを夢想した。

そして
匂いの記憶のない人を
あらゆる匂いで思い出し続けた日々が
ようやく終わりそうだと気づいたのだった。