sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて 冷たいシャンパンと 届いた本と手紙に気持ちが緩む、 感じ

「家の哲学」

 

著者のエマヌエーレ・コッチャは、なんとなく読んでて女性の気がしてたんだけど1976年生まれの、イタリアの男性哲学者で今はパリで教えてたりする人のようです。

 

以前、鬱の頃に潔癖症気味になって、古い本とかにさわれなかったのを、もうだいぶ乗り越えたけど、図書館ではやはりまだ新しい本に目が行く。ふと目に入った本がまだ新しくきれいだったので借りたのがこれ。家とか庭とか個人の延長のようなものが好きなのでよく確かめもせずに借りたけど、ちょっと読みたいと思ってた本「植物の生の哲学」と同じ作者だと、半分くらい読んでから気がついた。

本は、前半面白かったけど、後半は少し息切れしたかな。
家というものを説明してくれるものではなく、著者の思索が家の何かに繋がる感じで、家を離れた思索部分が結婚多いし、家の何かと結びつくところがやや強引なところがある気もする。さらにそこからもっと一般的なことへ、世界へと考えが広がりまとまりする感じ。
目次は:引っ越し、浴室とトイレ、家の中の物、庭と森、台所など。

 

訳者あと書きによると、家をテーマに一般向けに書かれたテクストでコンパクトで読みやすく書かれているもので、確かに哲学の言葉がとても苦手なわたしが読んでも特に難しい言葉はない。思考の飛躍もたまに柔軟というよりは強引に思える箇所があって、ついていきにくいところもあって、少し時間がかかったけど、覚えておきたいことが多かったので、わたしにはいい本だったと思う。

以下引用:

問われているのは、空間的な事柄ではない。住うことは何かに囲まれていることでもなければ、地上の空間のある一部を占拠することでもない。(略)

家はわたしたちが存在する仕方を変え。その魔術的な回路にとり込まれた者をみな変えてしまう濃密さなのだ。建築学や生物学は、そこにほとんど含まれない。(略)あらゆる家は純粋に道徳的な実在なのだ。私たちが家を建てるのは、世界の一部ーー物、人、動物、植物、大気、出来事、イメージ、思い出ーーを親密なやり方で迎え入れるためであり、そのことのよってわたしたちの幸福そのものが可能となるのである。

 

道徳とは、物や人にかかわる物質的秩序であり、事物、情動、わたしたち自身、他者たちを混ぜあわせて、最も広い意味でわたしたちがケアと呼ぶものの空間的な最小単位をつくるエコノミーである。つまり家庭(フォワイエ)である。幸福とは感情ではないし、単に主観的な経験でもない。それは恣意的で短期的な調和であり、心理的で精神的な親密性へと、物や人を一時的に取りこむのである。

 

哲学は何世紀にもわたって男性同一性に結びつけられてきた夢想、つまり、社会において際立つこと、都市において権力と影響力を持つことの夢想に酔わされてきたので、じつは世界のいかなる都市よりも哲学と結びついている家空間を忘れてきたのである。

 

わたしたちは自分の幸福の前でも、そしてその前でこそよそ者なのだーー幸福がわたしたちの中にあると考えるのはまやかしだ。もし幸福がわたしたちの中にあるのだとしたら、わたしたちは生活を営み、経験をなし、他者たちに出会い、他者たちの生に親密な仕方で混じり合い、事物に近づきすぎてそれに毒されたりする必要がないことになる。わたしたちの幸福には自然なものがない。反対に、幸福であろうとすることにおいてこそ、これらの自己の操作の行為や、文化と呼ばれる洗練の行為が始まるのだ。

 

引越しによって、家は実在しないということが実証される。存在するのは、家づくりであり、物と人とが互いを飼い慣らすこと(家化すること)という、とても長期にわたる駆け引きである。家は、わたしたちが暮らす世界に適応するためにわたしたち自身を飼いならすことにほかならないし、それは反対に、わたしたちの身体構造やイメージと、混同されかねないほどわたしたちがまとう一つの衣服、衣装のようになるまで、世界を飼いならすことにほかならない。

 

ストア派の書くところによれば、生きものの第一の衝動とは、自分自身の身体と意識を気にかけ、それらを何か親密なものにすることである。眼を開き、呼吸を始め、体を動かす。そうして、わたしたちは自分との親密さを構築する。みずからを自分自身に順応させる。わたしたちは絶えずそれを行い、時とともに、つねにもっと重要な世界の断片について問うようになる。家とは、産まれて呼吸し、眼を開いたときに始めたことを、拡張、増大したものにすぎない。

 

わたしたちが引っ越すたびに、〈わたし〉は自分に対して姿を現す。〈わたし〉とは、これから存在しうる、共有物としての世界の目録(カタログ)であるーー物によってできているか、それとも感情によってできているかはほとんど関係ない。だからこそ、引っ越しはときどきとても難しい。

 

ベッドは人間が発明した最も逆説的なものだ。わたしたちは限りなく多様な使い方をするーー読書し、誰かを愛し、天井を観察し。目覚めながら夢想する。しかしベッドはとりわけ、長時間にわたる精神の不在を迎え入れ、包み、可能にする。ベッドとは日々の嗜眠、繰り返されるフーガの劇場である。(略)わたしたちは自分を留守にする。(略)夢は毎日、わたしたちを世界から消失させ、わたしたちの前から世界を消失させる

 

料理のことを「世界の一部を食べられるものに変える」と書くのが新鮮だ。この哲学者のこういう書き方が好き。そしてこの文章にはすごく同意する。

料理を知らない、料理ができないということは、文字通り世界内に存在しない、つまり、世界の一部をなすすべてのものにわたしを結びつける現実的関係の手前にまだ身を置いているということを意味する。

一日中パソコンにむかってすごしていることを昔ならそれは降霊術と言われた、みたいに書くところも、少し笑った。ほんとそうよね。目の前にいない過去や未来や現在の人やものやことを呼び出して交信したり加工したりする。こういう視点に気づかせてもらうのは楽しい。